明治150年記念 高槻藩 永井 長井
幕末時に、八月十八日の政変により、京都御所の警護を行っていた長州藩および長州藩と同じ考えを持つ三条実美ら七人の公家が京都から追放されます。その七人の公家は長州藩兵と共に長州藩へと逃れていきます。こちらが”七卿落ち”です。その後、復権を願う長州藩が再び京都へ上京し、”禁門の変(蛤御門の変)”が京都御所で勃発し京都御所が戦場となってしまいます。徳川幕府と長州藩の激しい武力衝突となり長州藩は敗北してしまいます。その戦火による災が、京都の市中へ飛び火し、京都の街の住宅約3万戸が焼失(京都の街の約半分が焼失)したとされています。こちらが過去に幾つかある"京都大火"の一つです。
その戦後処理と第一次長州征伐において徳川幕府から講和会議の特使として徳川幕府大目付および高槻藩主(大阪):永井主水正(ながい もんどのしょう)を抜擢しました。徳川幕府はその高槻藩主の永井主水正(尚志)を介し、長州藩の支藩である岩国藩主(正式には岩国領)の吉川経幹へ"禁門の変"の戦後処理と第一次長州征伐の仲介役を依頼しました。
高槻藩主:永井 主水正(尚志) 公 (ながい もんどのしょう)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%BF%97

岩国藩主(領主):吉川経幹は、わずか14歳で領主となり、領主になったと同時に、将軍:徳川家慶へ就任の挨拶へ赴くなど、徳川将軍からは岩国領主でありながら大名並みの待遇を受けており、徳川家と吉川家の関係は悪くなかったとされています。元々、吉川家は、毛利家と敵対関係にありましたが、毛利元就の次男 毛利元春が吉川家の養子となり(吉川元春)親戚関係となりましたが、”関が原の戦い”の際の諸事情により長い間、長州藩岩国領であり、岩国藩へ昇格したのは幕末時のわずか3年間位でした。吉川経幹は、”岩国のお殿様”および”禁門の変”の戦後処理の徳川幕府に対する仲介役や長州藩代表として尽力しました。
その”禁門の変”の戦後処理の講和会議が、広島の国泰寺や岩国城で行われ、下記の降伏条件を長州藩が受け入れることで、第一次長州征伐は終結しました。
徳川幕府から→高槻藩主 永井主水正(尚志)、西郷隆盛など出席
長州藩から→岩国藩主 吉川経幹など出席
降伏条件の内容
・長州藩 筆頭家老:福原越後など三家老の切腹および四参謀の斬首
関連ブログ 宇部藩
http://blog.nagaifudousan.com/?eid=1552747
・長州藩主親子:毛利敬親、元徳からの謝罪
・山口城(山口市滝町1-1:現在の山口県庁)の取壊し
・公家の五卿を長州藩から他藩へ引渡すなど
※これだけの大事件を起した長州藩の処分に対して、上記の内容では甘すぎるとの意見が多数あったそうです。

永井氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E6%B0%8F
長井家 家系図

(長井から永井へ)
歴史家の先生から、高槻藩主の永井家は、長井(大江)→長田→永井となったと聞いたことがあります。そういうことであれば徳川幕府は、高槻藩主:永井家と長州藩主:毛利家が同じ先祖となる平城天皇→阿保親王→大江廣元の”大江流”であることや、同じ家紋であることも把握していたのでしょう。他にも、奈良の櫛羅藩(くじらはん)藩主の永井家なども同じ家紋を使用しているそうです。
関連ブログ 長州藩代表家紋
http://blog.nagaifudousan.com/?eid=1552736

個人的な推測として、このような”大江流”の永井家と毛利家の背景や、当時は家と家との繋がりを大切にする時代のため、徳川幕府は”禁門の変”の戦後処理を、高槻藩主:永井主水正(尚志)に託したのかもしれません。
大江 廣元公 ”大江流” 長井家家系図

元々の大江流の長井家は旧大名家として、当時執権をおこなっていた幕府から東北地方(通称:出羽長井など)、関東地方(通称:武蔵長井)、中国地方(通称:備後長井など)などに領地を与えられ、それぞれに赴任した長井家は、時代が変化する中、あるものは徳川家と共に歩み、あるものは毛利家と共に生きていく選択をしたのでしょう。時代が経過する中において、諸事情により”長井→永井”へと改名したところもあると聞いております。
中国地方に赴任した長井家は、備後国守護、備前国守護など、兄弟の毛利家は、安芸国守護、備中国守護などへと成長していき、毛利元就による中国地方の制覇、東軍総大将:徳川家康VS西軍総大将:毛利輝元とする””関が原の戦い”において敗北し領地を大幅に没収されたことや、幕末時の二度に渡る徳川幕府からの長州征伐に耐え凌いた結果、毛利敬親による討幕の成功など、数々の難局を乗り越えてきました。

第二次長州征伐(四境戦争)

第一次長州征伐後、長州藩に徳川幕府の討幕に向けた不穏な動きがあると察知され、第二次長州征伐となります。再び、高槻藩主:永井主水正(尚志)が、徳川幕府の特使として長州藩との仲介役を行います。武力による戦争だけは避けるように奔走しますが、徳川幕府VS長州藩の全面戦争を避けることはできず、ついに四境戦争へと突入してしまうのです。この戦いにおいて徳川幕府軍は15万の軍勢をもって長州藩全土を取り囲み、長州藩もこれに抵抗し激戦となります。この戦いに長州藩が勝利することにより、討幕へのムードが一層加速し、徳川幕府の時代が終ると共にサムライの時代も終り新しい日本へと変っていったのです。
また機会があれば、大手企業と長井家の関係などもお話ししたいと思います。
※記載の内容は、推測や根拠のない箇所もあります。また記載内容に誤りがある場合がありますのでご了承の程お願い致します。









